日記 067 一円に漢泣きされられるもの

一円を笑うものは一円に泣くといいますが、わたくしは一円をあざけるような目でしか見てないもんですから、本当に一円に泣かされてしまうことが多々あるわけです。たとえばあと1円足りなくて電車のれなくて、歩いて帰ったとか、そういうお金限界ギリギリエピソードが結構あるわけです。そういうとき、おれは本当に惨めな気持ちになって、一切のお金に対するコントロール感覚を失って、文字通り一文無しになっちまった、と自暴自棄になるのです。一文無しって、本当につらいぜ。残ってるのはスマートフォンと自分の足だけ。となると歩くしかないのですが、歩いてると出てくるんだよな、悔し漢涙が。本当に悔しいんだろう、すこしムッとした表情で泣くんです。なにが金じゃ、資本主義じゃ、と、まあ長丁場歩くわけですから、いろいろ考えるわけです。でもそれってさあ、一円をあざけり笑ったからじゃないの?って考えがそこで生まれて、ああ、一円にしてやられた、って思うわけなんだ。だから、この一円をうんぬんのことわざは、教訓にはならないんだ。結局一円を笑うものは一円足りなかったとき泣くが、一円にたいしてそこで抱く感情は怒りだから、結局そんなことがあっても一円をバカにし続ける。だから教訓的なことわざじゃなくて、人の性質を示すことわざだとおもうのである。そういうやつもいるんだぜ、的な。金に対しての感覚ってのは、現代、加熱しすぎた資本主義の中でぜったいもってなければいけない感覚なんだよな。それが麻痺ったら、まあうまく生きていけない。だから、せめてその感覚を少しでもいいものにできたらなあ、なんて思いながら机の上には一円玉がじゃらじゃらと転がっているのであった。

コメント